寝太郎参考資料02 チラシの裏メモ 2010年11月26日 寝太郎のモデルとなった人物について調べてみよう!……と思って調べてみたんですが、資料がないないorz架空の人物といわれている方なのでしかたないのかもしれないです(´・ω・`)ショボーンそんなわけで、彼の周辺人物を調べ、その歴史から私の憶測で寝太郎の行動を考えてみました。憶測です。史実と異なります。妄想とか入ってます。ちなみに、調べた人物は●平賀 清恒(ひらが きよつね)寝太郎のモデルとなったとされている。が、実在したかは不明。姉が一人おり、父の死後、彼女を頼って山口に移った際、大内氏に仕えたとある。その後、大内氏も滅び、難を逃れて隠れ人生活になり、名前も変える。主に夜行動するようになったことから寝太郎を連想させるようになった……らしい。旱魃に苦しむ村に灌漑工事を行ったとされる。●大内 義隆(おおうち よしたか)戦国時代の大名。朝鮮にお経を求めにいったりキリスト教の布教を支持したり、文芸にも造詣が深い人。家臣の謀反にあい、大寧寺の変にて自殺。●平賀 玄信(ひらが げんしん)成頼から玄信へ改名。出自が庶流の庶流なためか、資料が少ない。寝太郎のモデルである平賀 清恒(ひらが きよつね)の父とされている。他に一人、娘がいて冷泉 隆豊のもとへ嫁いでいる。大井氏の先鋒として甲斐国守護の武田信虎と争ったといわれる。海ノ口城で武田勢に包囲されながらも武田勢を断念させる防衛戦を繰り広げたとか。ちなみに、海ノ口城の戦いは武田信玄の初陣ともいわれている。調べた文献では、武田信玄が英雄視されているせいか、平賀玄信は海ノ口城で討ち死にし武田信玄が彼の武勇を讃えて塚を建てたとある。●冷泉 隆豊(れいぜい たかとよ)戦国大名・大内氏の家臣。和歌の師範家の流れをくむ家柄だが、本人は武勇にも長けていた。平賀玄信の娘婿。寝太郎のモデルである平賀清恒の義兄にあたる。●陶 隆房(すえ たかふさ)後の陶 晴賢(すえ はるかた)。戦国時代の武将で大内氏の家臣。●尼子 詮久(あまこ あきひさ)後の尼子 晴久(あまこ はるひさ)。戦国時代の武将。結果的に物語への関与はない方ですが、大内義隆、毛利元就とバトルを繰り広げたってことで調べてみました。……と、ざっとこんな感じです。この方々の歴史から憶測で、妄想で寝太郎の時代をメモしてみました。メモについては、下の「寝太郎妄想憶測メモ」からどうぞ~。 【憶測の物語メモ】ちょこちょこ妄想とか入ってるので注意■天文5(1536)年・10月海ノ口城の戦い。佐久侵攻が行われ、武田勢が城を包囲する。武田晴信(後の信玄)の初陣。平賀成頼(後の玄信)は一ヶ月あまり防戦する。→武田勢を断念させたとも、玄信が討ち死にしたともいわれる。■天文8(1539)年平賀成頼の子・清恒が山口へくだる。姉を頼って訪れ、姉の夫であり大内氏家臣でもある冷泉隆豊のつてで大内氏に仕えることに。三千石を給わる。■天文12(1543)年~天文18(1549)年頃大内義隆の寺社保護政策に家臣が不満を募らせる。大内義隆ら文治派と、家臣・陶隆房(のちの晴賢)ら武断派の衝突が深刻化。冷泉隆豊が仲介に四苦八苦する。清恒もとばっちりをくらって主従5人で落ち武者に。冷泉隆豊のいる塚之原城に身を寄せる。■天文19(1550)年フランシスコ・ザビエル山口に来訪。大内義隆はキリスト教布教を許可する。・8月陶隆房、大内義隆に叛く。翌年に予定されていた山口興隆寺修二月会の大頭役に任命される。・11月17日陶隆房、大内義隆に暇乞い。本拠地である富田へ行く。・12月フランシスコ・ザビエルが将軍、天皇に会えず山口に帰ってくる。■天文20(1551)年・2月頃フランシスコ・ザビエル、大内義隆に謁見。将軍、天皇に渡す予定だった献上品を大内義隆に献上。・8月陶隆房が挙兵。山口を襲撃。大内義隆と冷泉隆豊、家臣らの攻撃に圧され逃走。長門の大寧寺に逃れるが、陶氏の軍勢がさらに迫る。・9月1日大内義隆、自害を決意。冷泉隆豊が介錯する。その後、冷泉隆豊も陶軍に単独突撃。討ち死にする。清恒、義兄・冷泉隆豊の死後、難を逃れて鴨ノ庄に隠れる。百姓となって「縄田四郎兵衛清恒」に名を変え隠れ人生活へ。昼は寝て、夜に行動するようになる。やがて、村の深刻な旱魃問題を知り、灌漑工事計画を立案。■弘治1(1555)年萱原を開拓して「千町ヶ原」と命名。厚狭川の柳瀬に大井手を作り、用水路を鴨之庄の真ん中に引いて開田。500ヘクタールの水田を作った。 ◆仕神けいたの活動報告 FANBOXとクリエイティアで活動報告をしています。 FANBOXではVroid系・イラストを、クリエイティアでは、執筆関連の報告や仕神の執筆環境などの報告をします。 どちらも会員限定の情報がありますので、ご興味ありましたらどうぞ! PR